あの淀みきった空間を真っ先に抜け出したのは、ただ単に自分のためだったのだろうと思う。窒息してしまいそうだった。それだけのことだ。
彼の前に(正しくは彼の牢の前に)座ると、彼は僅かに顔を上げてこちらを見た。窒息死を避けるためだけに彼の話し相手を引き受けたのだから、彼を救ってやることは到底出来ないと思った。そもそも、救う、という言葉の意味をまともに考えたことが無かった。
彼はとにかく沈黙するばかりで、廉造を一度見たきり下を向いてしまっていた。救う、という言葉の意味を考えたことは無いが、無力、という言葉の意味は日々考える。相手の沈黙を破る方法は知らないが、無知、という言葉の意味はよく知っていた。彼が何も言わないので、廉造も何も言わなかった。あの空間と似た重い沈黙が流れていたが、呼吸は随分と楽だった。
彼がいつ牢を出られるのかは別として、この空間の方が彼に優しいような気がした。彼だってそろそろ限界だろう。人目(この場合は彼の事情を知る人々の)を避けたいことはあるだろうし、今はまさにその時なのだと思う。それでも廉造がここに呼び寄せられたことは、少なくとも彼の師(らしいが詳しくは知らない)の気まぐれでは無かった。彼の<事情>を壁としない存在が、とにかく彼の話し相手になるべき時でもあるのだと言う。
彼女の言うことは正しい。廉造が嫌ったあの空間の沈黙の意味も、彼から弾け飛んだ明るさの行方も、彼女はとてもよく分かっている。
「……なんで、お前がここにいんだよ」
彼がまた僅かに顔を上げていた。薄暗い牢の奥で、彼の警戒心はあからさまだった。なんでやろうね、と廉造は少し笑った。それくらいしか出来なかった。廉造が笑う(上手く笑えたとは思えないが)ので、彼は驚いた様子だった。牢の中に右手を入れて、「あ、奥村くんの尻尾に届きそうや」と言うと、そうでもねえよ、と彼は言った。
「……上手く、いかねえよな」
彼は溜め息混じりに肩を落とした。もう顔は上がっている。彼が小さくなったように感じたのは、眩しいほどの覇気が逃げてしまったからだと思った。
「そんなことないやろ」
「そんなことあるよ」
「例えば?」
「は? ……えっと、」
「答えに詰まるようなことを悩んどったら時間の無駄や。そう思わん?」
彼は何も言わなかったが、怒るようなことも無かった。暫くして、まあな、という呟きがあった。
「ここの"なんとか"ってヤツらは、皆さ」
「"明陀"のことは気にせんでええよ。奥村くん、自分で言うたんやろ、『俺は関係無い』て。それ以上でも以下でも無いやん」
「うん……」
もっと何か、他に言うべきことがあるはずだ。口にする度に酸化してしまうような言葉で、一体どれだけの説得力があるだろう。自分のためにここへ来た人間が、一体、彼を、どうやって。
「……志摩?」
はっとした。薄暗い空間に彼の目がよく映えていた。猫みたいだ、と思った。「あ、」
「……なんか話せよ、つまんねーから」
彼が緩慢に近寄ってきた。今度こそ届きそうや、と手を伸ばすと、うっせ、と言う彼は黒い尾でその手をはたいた。「わっ、今めっちゃふさふさやった」
「っせえな。尻尾のクオリティなめんなよばか」
「なめてました完全に。わーわー、もっかい触らしてー」
伸ばした右手を彼の前に置いた。彼の膝には手が届きそうだ。右手をぱた、ぱた、と何度もはたかれる。ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。ゆびきれいだなおまえ、と言う彼は泣いていた。涙の溢れる両目が右手をじっと見つめている。ぱた、という音が辛かった。叫びたくなった。叫びたいのは彼の方だろうに。「……指きれいとか、そーいうのは女の子の言うことやで」
「しらねえよ、そんなこと」
「うん」
救う、という言葉の意味を考えたことは無いが、無力、という言葉の意味は日々考える。あの淀みきった空間を真っ先に抜け出したのは、窒息してしまいそうだったからだ。窒息するのを避けるためだけに彼の話し相手を引き受けたのだから、彼を救ってやることは到底出来ないと思った。そもそも、救う、という言葉の意味をまともに考えたことが無かった。
「志摩、」
「うん」
「ありがとな……」
「うん」
「あと、ゆびはマジできれいだから」
「うん」
泣きながら必死に平生を装う彼を、やはり自分はどうすることも出来ない。両手を伸ばせば抱きしめられる距離で向かい合っているのに、牢の格子が邪魔をする。もし仮に彼を抱きしめたとして、それで彼が救われるのかは分からなかった。結局、自分は相手の涙を止める方法も知らない。それでいて無知であることの意味はよく知っている。抱きしめる、という手段を思いついた自分は酷く惨めだった。そんなことで彼の眩しさが戻ってくるのなら、彼の師も彼の弟も、疾うにそうしている。
彼の前に(正しくは彼の牢の前に)座ると、彼は僅かに顔を上げてこちらを見た。窒息死を避けるためだけに彼の話し相手を引き受けたのだから、彼を救ってやることは到底出来ないと思った。そもそも、救う、という言葉の意味をまともに考えたことが無かった。
彼はとにかく沈黙するばかりで、廉造を一度見たきり下を向いてしまっていた。救う、という言葉の意味を考えたことは無いが、無力、という言葉の意味は日々考える。相手の沈黙を破る方法は知らないが、無知、という言葉の意味はよく知っていた。彼が何も言わないので、廉造も何も言わなかった。あの空間と似た重い沈黙が流れていたが、呼吸は随分と楽だった。
彼がいつ牢を出られるのかは別として、この空間の方が彼に優しいような気がした。彼だってそろそろ限界だろう。人目(この場合は彼の事情を知る人々の)を避けたいことはあるだろうし、今はまさにその時なのだと思う。それでも廉造がここに呼び寄せられたことは、少なくとも彼の師(らしいが詳しくは知らない)の気まぐれでは無かった。彼の<事情>を壁としない存在が、とにかく彼の話し相手になるべき時でもあるのだと言う。
彼女の言うことは正しい。廉造が嫌ったあの空間の沈黙の意味も、彼から弾け飛んだ明るさの行方も、彼女はとてもよく分かっている。
「……なんで、お前がここにいんだよ」
彼がまた僅かに顔を上げていた。薄暗い牢の奥で、彼の警戒心はあからさまだった。なんでやろうね、と廉造は少し笑った。それくらいしか出来なかった。廉造が笑う(上手く笑えたとは思えないが)ので、彼は驚いた様子だった。牢の中に右手を入れて、「あ、奥村くんの尻尾に届きそうや」と言うと、そうでもねえよ、と彼は言った。
「……上手く、いかねえよな」
彼は溜め息混じりに肩を落とした。もう顔は上がっている。彼が小さくなったように感じたのは、眩しいほどの覇気が逃げてしまったからだと思った。
「そんなことないやろ」
「そんなことあるよ」
「例えば?」
「は? ……えっと、」
「答えに詰まるようなことを悩んどったら時間の無駄や。そう思わん?」
彼は何も言わなかったが、怒るようなことも無かった。暫くして、まあな、という呟きがあった。
「ここの"なんとか"ってヤツらは、皆さ」
「"明陀"のことは気にせんでええよ。奥村くん、自分で言うたんやろ、『俺は関係無い』て。それ以上でも以下でも無いやん」
「うん……」
もっと何か、他に言うべきことがあるはずだ。口にする度に酸化してしまうような言葉で、一体どれだけの説得力があるだろう。自分のためにここへ来た人間が、一体、彼を、どうやって。
「……志摩?」
はっとした。薄暗い空間に彼の目がよく映えていた。猫みたいだ、と思った。「あ、」
「……なんか話せよ、つまんねーから」
彼が緩慢に近寄ってきた。今度こそ届きそうや、と手を伸ばすと、うっせ、と言う彼は黒い尾でその手をはたいた。「わっ、今めっちゃふさふさやった」
「っせえな。尻尾のクオリティなめんなよばか」
「なめてました完全に。わーわー、もっかい触らしてー」
伸ばした右手を彼の前に置いた。彼の膝には手が届きそうだ。右手をぱた、ぱた、と何度もはたかれる。ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。ゆびきれいだなおまえ、と言う彼は泣いていた。涙の溢れる両目が右手をじっと見つめている。ぱた、という音が辛かった。叫びたくなった。叫びたいのは彼の方だろうに。「……指きれいとか、そーいうのは女の子の言うことやで」
「しらねえよ、そんなこと」
「うん」
救う、という言葉の意味を考えたことは無いが、無力、という言葉の意味は日々考える。あの淀みきった空間を真っ先に抜け出したのは、窒息してしまいそうだったからだ。窒息するのを避けるためだけに彼の話し相手を引き受けたのだから、彼を救ってやることは到底出来ないと思った。そもそも、救う、という言葉の意味をまともに考えたことが無かった。
「志摩、」
「うん」
「ありがとな……」
「うん」
「あと、ゆびはマジできれいだから」
「うん」
泣きながら必死に平生を装う彼を、やはり自分はどうすることも出来ない。両手を伸ばせば抱きしめられる距離で向かい合っているのに、牢の格子が邪魔をする。もし仮に彼を抱きしめたとして、それで彼が救われるのかは分からなかった。結局、自分は相手の涙を止める方法も知らない。それでいて無知であることの意味はよく知っている。抱きしめる、という手段を思いついた自分は酷く惨めだった。そんなことで彼の眩しさが戻ってくるのなら、彼の師も彼の弟も、疾うにそうしている。